鹿背山焼の歴史

万葉の昔からの長い歴史を育くみ、伊勢や京都とも関係の深い風雅な所として知られる鹿背山は、現在の京都府相楽郡木津町の東方に位置しています。
この地は起伏に富み、また豊かな緑にも恵まれていたところから「隠れ谷」と呼ばれ、古くから五摂家のひとつでもある一条家の領地でもありました。
鹿背山に窯が開かれたのは文政年間、時の公卿で茶人でもあった一條忠香公が、そのお好みである煎茶のための御手窯を紹応されたのが初めであると伝えられています。

弘化から嘉永年間ごろに、鹿背山焼きは最盛期を迎えました。
芥川又平なる人物を中心に、築窯名人の小川久右衛門、名工と歌われた京の道仙・金三郎・玉樹園・七兵衛・為楽・松翠軒、伊万里からは清平、絵付師の酒井梅斉らを集めた頃は、多いときで二十数名による分業経営が行われていたといわれます。

土と窯の再興

鹿背山焼きは、もともと磁器として発達しており、原料には遠く九州の天草砥石を用いています。
作品は深みのある白磁に、呉須とコバルトによる中国風の古染付・ 写しを施した巧みなものですが、磁器の系列とは別に、文久元治年間ごろに奈良の赤膚山工人入会窯が同地に有り、この地に産する陶土を用いた陶器作りもまた盛んであったようです。

しかし、木津川の水上交通に販路を求めていた鹿背山焼きは、明治期の鉄道開通に伴い有田・瀬戸・美濃といった大産地に市場を奪われはじめました。
更には、磁器の原石を地元共有できないという最大の弱点が、原材料買い入れ経費の高騰としてあらわれてきたことも加わり、鹿背山焼の隆盛ももはやこれまでかと思われました。

こうして「幻の窯」とまで言われた鹿背山焼でしたが、戦後になって地元西念寺の田辺前住職や陶器研究家の保田憲可氏らの調査研究が初められたことから、その歴史的全貌が次第に解明され始めました。
さらに最近になって、若い陶芸屋や地元の理解協力者らによって、七十年ぶりに窯の最高が成し遂げられるに至りました。
「無想窯」もこうした背景のもとに開かれた窯の一人であります。